お祭りの思い出
先日近所でお祭りがあって、浴衣姿の姉ちゃんや甚平きた兄ちゃんを随分見かけた。人混み大嫌い、祝い事やイベントのノリが照れくさくていまいちはしゃげない私はその日の晩ご飯調達のためにひっそりと祭りに顔を出してきた。
そこで大学時代に食べたどんどん焼き(箸巻きって名前で売ってた)を見つけ、せっかくだからと買ってみた。もっちりした生地がやっぱり美味しい。大学時代を思い出してちょっと寂しかった。
ふと頭に浮かんだのは、大学時代にボランティアで参加した某市のお祭りだ。多分初めてどんどん焼きを食べたお祭りだったと思う。そこで見た光景が、私の中で一番切ないお祭りの思い出だ。
お祭りが終わって帰りの駅でのことだった。
当時の私と同い年くらいの、浴衣姿の女の子が静かに顔を覆って泣いている。そばには困惑した様子の彼氏らしきイケメン。2人から(もっぱらイケメンから)話を聞いている駅員のおじさんは、やはり困惑しながらも同情的な目をしていた。
駅には私と一緒にボランティアに参加した友人と、そのカップルと駅員さんしかいなかった。この時点で気まずい。夜遅く、田舎の駅だったので静まりかえっていたため聞き耳を立てれば話している内容も聞こえそうだったが、流石にそんなことしたくなかった。
お祭りを楽しんでもらうためにボランティアをして、それが上手くいってお客さんワイワイ運営ウハウハな結果で終われたのだ。疲れたけど楽しかったし最後の花火綺麗だったねーなんてキャッキャと喋りながら帰路についていたのだ。
それなのに目の前で女の子が、しかも浴衣をきっちり着付けてお洒落もした女の子が泣いているのだ。私と友人がボランティアしていたお祭りを、彼氏と楽しんだであろう女の子が。
つらすぎないだろうか。私の考えすぎだろうか。
時折何か話すために顔を上げる女の子は、よく見ると学科は違えど同じ大学の学生で、更に当時よく利用していたスーパーでレジ打ちをしていた子だった。気まずすぎだろ。
別にこちらの顔は覚えてないだろうが、何故か悪いことをした気になってとりあえず俯いて顔を隠した。電車が来るまでの数十分、ほんとに地獄だったと思う。
と、ここまで書いて「お祭りでの思い出じゃなくてお祭りの帰り道での思い出だったわ」と気づいたが、お祭りのことを思い出そうとするともれなくその光景がセットで引っ張り出されるのでもうお祭りでの思い出ってことで良いでしょう。
真相はわからんけど、きっと女の子はスリに遭ったか何か落としたんでしょうね。怪我してる風もなかったし、特に身なりが乱れてることもなかったので。
これを筆頭として、あんまりお祭りに良い思い出が無いのだ。だから余計に楽しめないのかもしれない。他のお祭りエピソードについてはまた気が向いたときに書こうと思うのでここでは触れないでおく。
楽しかったのは2年続けて行った花笠祭ぐらい。あー懐かしー、もう一回行きたいなぁ〜
久々のわりにオチのない話
最近仲良くなった人がカメラ好きだった。
私もカメラってか写真好きなので一緒に撮りに行ってきた。彼女は良くカメラ好きな友達と旅行がてら撮影しに行っているようで、そりゃもう綺麗な写真ばっかり撮れる。
私といえば、可愛い女の子のポートレートが大好きで「いつかモデルさんの撮影会行きたいなぁ」という下心でカメラを所有しているだけなので、正直くっそヘタクソである。特に風景なんて「え、これなんで撮ったの?事故の実況見分?」レベル。
それでも撮った写真を現像してもらうと、なんだかいっぱしのアーティストになった気分になれて満足である。文章にしろ写真にしろ、どんな創作物も手に取れる形になると気分アガるね。
で、何と無くカメラって楽しいなぁと思い始め、ちょいとフィルムカメラなんかに興味が出てきた。
現在は少々古めのミラーレス一台のみ所有していて、もう一台くらいあってもいいかなぁなんて考えたのだ。一応近所のカメラ屋さんに相談したら、明らかにクソ高いデジイチを売りつける気だったので逃げてきた。
そこで、実家に転がっていたトイカメラを回収してきて使おうと思った。おそらく十数年前に家族がどこからか景品でもらってきたものだったが、誰もカメラに興味が無かったので放置されていた。
壊れているところやカビがないか点検したらところ、放置されていたわりに保存状態は良かったようで内部は綺麗だった。ただ、外装の下にホコリが入っていて(外装が透明なプラスチック)、こりゃ取らないかんと精密ドライバーで分解。
が。細かい作業が好きなわりに短気で不器用、更に屈強な上半身を持つメスゴリラな私。
見事外装のみ破壊。どうすりゃネジ外して外装取り外すだけで壊せるのよ…
こう、ちょっと手間かかる作業を一気に済まそうだとか、引っかかるところを筋肉で解決しようとしちゃダメね。
結局、あまぞんでフィルムのトイカメラ買い直した。最初からこうすれば良かった。
さて、カメラを買ったはいいけど何を撮ればいいんだろう。多分今の腕前でトイカメラを使っても「飼ってる猫にイタズラされてシャッター切れちゃった?」みたいな写真しか撮れない気がする。
またカメラ好きの彼女と遊びにいく前に、それなりに写せるようにしたい。
あと、ぶっ壊したカメラと持て余した精密ドライバーの使い道を考えたい…
そーれイッキ!!!イッキ!!!
よっぽどのことがない限り出された食事は完食するようにしている。
と言うのも実家だと人数が多くておかず争奪戦になったり、一個しかないお菓子を何等分もして分けて食べたりしていたので「私ひとりでお腹いっぱい食べていいなんてありがたい!」と貧乏性が炸裂するからだ。
あとは中学生の頃からちょいちょい料理するようになって「頑張って作ったのに残されるとムカつく」「残されると片付けが面倒」と思ったから。
だから家族が作った料理もファーストフードも、知り合いの作った手作りお菓子も基本的においしくいただく。外食してエビフライが出たら尻尾まで食べてる。
で、その残さない対象、最初に出される水も含まれているんですよ。
他人が半端に飲み残した水を片すのも嫌だろうなぁ、って飲み切ってから席を立つようにしているのだけど、これがカフェやレストランだとグラスが空く前に「お注ぎします」されてしまう。また飲む。また「お注ぎします」。3杯くらい水だけ飲むのでお腹がぶがぶである。
最近は財布と伝票を握りしめ、店員さんがよそ見をしているうちに一気に飲んでお会計までダッシュするようにしている。サービス心から逃げるという意味不明な行動である。
飲み残せばいいんだけどね。
しかし今日、行きつけの喫茶店で最初から水入りグラスを2個出された。私は「いつも喉が渇いている、水好きな客」と思われているようだ。もちろん2杯とも飲み切った。
似たような価値観の人、いないかなぁ。
久々に
退屈しのぎにネットを見ているうち、とあるサイトを見つけた。
それは男性セラピストによる女性専用マッサージ、言うなれば女性用◯俗を個人経営している人のサイトだ。
男性用のそれとは異なり、妖しいデザインでもなく下品で煽情的な文句もうたわれず、加工しまくりんぐなキャストの写真も無い。シンプルで落ち着いたデザインに記された業務内容は、あくまで『これは女性の疲れた心と体を癒すマッサージですよ、自分の欲望を満たすためではないですよ』ということを推している。
セラピストの写真はぼかしただけの自撮りで、もっちりと可愛い雰囲気の男性だった。
寂しい女性のケアをしてあげたい、とそのセラピストは主張する。男性経験の無い女性や彼氏・夫と上手くいっていない女性をいたわり、寂しさを癒してあげたい、と。自分も寂しがり屋だから気持ちがわかる、とも。
もちろん料金は発生する。それは経費とセラピストの収入のためだが、「きちんと金銭のやり取りがあれば浮気や不倫ではなくなる」ことの証明の意味もあるらしい。
もしセラピストが本当に女性のためにとその商売をしているなら、それはそれでむなしくならないのだろうか。
女性を思っての言葉や振る舞いや行為も、金をもらってしまえば単なるビジネスの一環になる。どんなに相手を愛しても、相手が金を渡せばそれは売るための愛、紛い物の愛になってしまう。
相手に優しく、愛情を持って接することを商売としているなら、仕事中に相手=客に振りまく善意愛情その他諸々は全て商品になる。たとえ本当に愛情を抱いていても。
利用する客の女性たちは、彼が提供する愛が紛い物と割り切っていると思う。
偽物だから本気にならずに済む、相応の対価を支払えば自らが望む振る舞いをしてもらえる。本物の愛が不確かな存在で手にしているかわからないのに比べ、購入という手続きを踏んで手に入れた紛い物の愛は確かに存在する。
紛い物なら躊躇わずに貪れるだろうし。
セラピストの方も、本当に寂しがり屋なんだと思う。その商売をしている限り、やはり紛い物の愛を持った女性=客と触れあえる。単純に性欲云々だけではもたないだろうし。
私がフリーランスじゃなくて直接客と接する仕事を探していたのも「なんでもいいから沢山の人と喋りたい」という動機からだった。他人と喋らないと寂しいから。客からただの店員としか見られなくても、何か話せればすごく嬉しい。他人だし客だから、身内にはできないような優しい言動も好きなだけできるし。
おそらく身近な人間関係で確かな本物の愛の存在を感じられれば万事解決なのだろうが、直接金銭のやり取りがないフェアな関係は各々感情や事情を持つ人間同士の対峙である。
「これください」
「千円です」
「じゃあ千円ちょうどで払います」
「こちらお品物です」
というような流れにいつもなる訳ではない。嫌なときもできないときも、伝えてるのに受け取ってもらえないときもある。
そういうときの捌け口というか、本物の愛の代用として紛い物の愛を求めるんじゃないだろうか。
まあ純粋に性的欲求を満たしたいがために利用する人もいるのでしょうが。
久々に書いたら支離滅裂な長文になりました。やっぱ定期的に書かないと文章力は衰える一方ですね。
両手ならいけるから
今週のお題「2017年にやりたいこと」
あけましておめでとうございます。
当初『文系無職お姉さんの日記』として開始したこのブログ、無事無職ではなくなったのでひっそりタイトルから無職を外しました。
さて2017年、やりたいことは何かというと「片手でスチール缶をグッシャグシャに握り潰す」です。
内面容姿ともに良いところが無い私ですが、無駄に骨太で上半身のガタイが良く握力が強いのが数少ない長所です。ちょっとしたメスゴリラです。
ならスチール缶ぐらい余裕じゃろと思われるでしょうが、小さくて肉厚かつ指の短いクリームパンのような手をしてるので細い缶でも包めきれず力が入れにくいのです。
手の大きさは変えられないので、そのハンデを乗り越えるほどの筋力を身につけ達成したいと思います。
腹筋割る、とどっちにしようか迷いましたがこれにしました。どっちにしろ何の役にも立たないというツッコミはスルーで。
結局容姿なんざ自己満ってのはわかってるけど
容姿に関する悩みは尽きない。左右非対称の小さい目とかキメの荒い血色悪い肌、短い手足と筋肉がみっちりついたゴツい肩。背が小さいのに骨太で、いかにもメスゴリラである。病気になって骨密度が低下したんだから、中身がすかすかになるんじゃなくて細くなればいいのに。
好きな女性芸能人があんまりいないのは容姿に劣等感を覚えるからだ。「何でこんなに可愛いんだよ!」とイライラする。恋愛ドラマなんか面白くない。可愛い人がイケメンに愛されて終わりだから。ケッ。
しかしながらこの容姿へのコンプレックスはいわゆる異性目線、モテを意識したものではない。しいて言うなら同性の目、もっと言うなら自分自身の目を意識したものだ。
自分の容姿に満足している人間とそうでない人間のどちらが充実した日々を送れるのかは明白だろう。最も自分の顔面や体に密接して関わるのは他ならない自分自身だ。朝目覚めて顔を洗い、洗面台の鏡を見たときにクッソブスな、大嫌いな人間の顔面を目にした瞬間の嫌悪感と絶望。そのクッソブスが自分なのだ。
これが「そこそこ気に入っている自分」だとどうだろう。よーし今日もお洒落するかー私オレンジ系のチークだと肌綺麗に見えるんだよねーとか思うんじゃないだろうか。気に入っている自分を更に飾ってあげたくなるんじゃないだろうか。
正直自分の容姿に満足しているか否かに美人とかブスは関係ない。自分の顔が好きだと言い切れる人は自分自身を大切にしている人だ。私は自分の容姿が醜くて嫌いだから好きになれない。だから満足できないのだ。可愛くなりたいのだ。
あとはブスだと友達になりたい人がいるときにためらってしまうのが辛い。前述したようにクッソブスで大嫌いな自分を引っさげて人前に出ている。クッソブスで自分でさえ大嫌いな自分と友達になってくれだなんておこがましいし失礼だし、自分自身に嫌われる奴を好きになってくれる人なんていないし。
こうして卑屈で根暗なブスが生まれるのだ。
ブスとして生きる以上、美人のするものとは別次元の努力をしていくことになる。私の場合は愛想を良くすることに全振りした。いつも機嫌が良くてニコニコしてる私を「可愛いね」と言ってくれた人はいたけど、それは造形じゃなくて動作のことを言っているのだ。子ブタやブルドッグに言う可愛いと一緒だ。切ない以外のなにものでもない。
どうか来世は色白華奢な儚げ美少女に生まれて長身切れ長一重イケメンボイのお姉さんとイチャコラしてますように。
そういう人を癒す立場でありたい
中学時代は3年間、同じ男性教師が国語担当だった。
多分2年生のときに「盆土産」という小説を授業で取り上げた。出稼ぎに行っている主人公の父が、主人公が食べたことがないエビフライをお土産に盆に帰ってくる話。確か主人公の家には母親がいなくて(死別?)普段はおばあちゃんと姉との3人暮らしだったはず。
小説なのでまず初読の感想をノートにまとめ読み上げる、というのをやることになったが、当時は日に5食食べていたくらい常に空腹で、感想なんてエビフライおいしそうでしたしか思いつかない。内容もさっぱり頭に入ってこなかったので、自分の父が単身赴任していたときのことを思い出してそれを書いた。私も主人公と同じ経験してます、といった感じで。
私が幼い頃、父は単身赴任していた。今なら新幹線で2時間足らずで行ける場所だと知っているが、当時の私には父の働く街は外国ほど遠い場所だと思っていた。時々帰ってくる父はいつもお土産を買ってきてくれたけど、お土産より父が家にいてくれることの方が嬉しかった。
あるとき母と兄弟とで父の住むアパートを訪ねた。そのときのことはまだ思い出せる。実家とは全く違う、殺風景で色のない部屋。帰って寝るためだけの部屋だった。手紙の書けない私が父に送っていた幼稚園で作った工作だけがテレビ台の下に飾られていた。
それからしばらくして父は単身赴任を終えて帰ってきた。単身赴任中のことは今も話さない。私は父が単身赴任先に戻るたびに寂しいから嫌だと大泣きしていたけど、きっと父も寂しかったのだと思う。父は本当に家族のことを思って、ひとりで働いてくれた。私も家族を大切にしたい。
こんな内容だったと思う。苦手な音読を終えてノートから顔を上げると、発表を聞いていた同級生たちは静まりかえっていた。やっぱ内容に触れてないもんなぁ、と男性教師の方を盗み見ると、なんと涙ぐんでいた。同級生たちは男性教師が泣いていることに動揺していたらしかった。
すみません、と私は謝ったと思う。なぜかわからないけど。いやいや、と男性教師は涙を手で拭って、別の生徒への発表を促した。
あのときはなぜ男性教師が泣いたのかわからなかったが、現在なら理解できそうな気がする。
男性教師も妻子持ちで、家庭を守る男としての重圧に耐えていたのだと思う。私の父がひとりで知らない街に働きに出たのも、きっとその重圧のひとつだ。
私も子どもを持つともっと正確に理解できるのかもしれないけど、男女平等と言えど男性の重圧を完全に知ることはできないだろう。女性の苦悩を男性が理解できないように。
もっと万人に救いのある世の中にならんかなぁ。みんな心のどこかにあると思う、孤独を感じるばかりの色のない部屋。